2016年3月3日木曜日

サンタ・サングレ/聖なる血

1989年作品
監督アレハンドロ・ホドロフスキー、アダン・ホドロフスキー

あらすじ:父はサーカス団の団長。母はサーカスに出演しながらも、両手のない少女リリスを聖人とした異端な宗教にはまっていた。

ある時、父の浮気現場に乗り込んだ母は父の返り討ちに会い、リリスのように両手を切られてしまう。
父はその後、自分の喉を切って自殺する。

それがきっかけでサーカスは解散。

少年は、精神病院に入っていた。

そして、そろそろ出なくてはいけない、と外に出る訓練を始め出すと、母親が呼びかけが。

病院を抜け出し、母と息子の生活を再スタートさせるが、母親の手となる生活は人殺しまで強いられるものだった・・・。




「ホーリー・マウンテン」から大分間が空いていますが、各作品の隔たりは相変わらずほとんど感じられません。
制作年を見ると、ほぼ90年に近いですから、本作はなおさら古さも感じないですね。
携帯とかPCのあるなしと関係ないところでのドラマって、こういう時得ですよね。

とはいえ本作は、商業作品を意識した、とのことですが、これは監督なりのジョークだと思いますw

ただ、しっかりとしたストーリーがある、という意味ではその気持ちは感じられますが。

でも、ざっくり分けると「エル・トポ」グループと言う感じで、言われないとその意識はわからないです。

いつものホドロフスキーお馴染み要素も満載です。

小人などのフリークス。
ボーイミーツガール。
精神病院。
異端な宗教(腕のない少女リリスが命を落とした血の海の場所に教会を立てている)
サーカス
シュール(つけ耳の紳士?が耳を外して少女に食べさせようとする等)
コミカル要素(腕のない母親に二人羽織り状態)
パントマイム

などなど。

【皆大好きサンタ・サングレ】

でも、確かにサンタ・サングレは、他の作品に比べると、私の周囲でも圧倒的に人気があります。
やっぱり「商業意識」の成果はあるのかもしれませんね。

今となっては、珍しくもない「シリアルキラー」的なお話しも、当時としてはそれほど、ありふれていた訳ではなかったのかもしれませんね。
しかも、「母親の腕となって、(母の命令で)近づいてくる女性を殺す」
だけでも、なかなかサイコですが、実はそれも全部妄想で、「母は父親に殺されていて、母だと思っていたのは、人形だった」という。

マジの1人で二人羽織りしていた、という。

そんな落ちも、皆を夢中させる要因でした。

それは、知ってから見る今でも、途中で「あれ、これは何が事実で、何が妄想なんだろう」とわからなくなりますし、そこの驚きをまた楽しみたいなーとも思います。

記憶がなくなった頃に見るのがおすすめです。

【ボーイミーツガールという要素】

個人的には、今回改めてホドロフスキー作品を見返し、そして初めてきちんと作品の事を考えてみてわかったのですが、どこか馴染みやすいのって、必ずこの「ボーイミーツガール」の要素があるからなんですよね。

監督は、そもそも家族との結びつきが強いですよね。
自分も登場しますが、息子と一緒だったり、もしくは息子を役者として撮ったり。
ある意味、そういう人としてのごく自然な行動をしている、という部分は、安心感にもつながるんですよね。

その延長線にあるものとして、「ボーイミーツガール」という普遍的な恋愛要素。
しかも、もれなく純愛なんですよね。

前回、描き忘れましたけど、「ホーリー・マウンテン」にもその要素はありました。
(主人公とすれ違いざまにまさに一目ぼれ? して、それから後をつけてくる娼婦)

今回は、商業意識のおかげか、この要素がまさにストーリー上、重要な役目にもなっています。

幼い頃に、サーカス団で出会った口のきけない少女と、その息子の主人公、フェニックス。

二人は出会った瞬間にフォーリンラブしますが、父と母の事件により、仲を引き裂かれます。

そして、その後、少年は狂うのですが、唯一の心の支えは、実は母ではなく、この少女だったんです。

少女もまた、その後も続く、不幸な暮らしの中ででも、少年の存在を忘れる事なく、ある日少年の居場所を見つけると、まっすぐに再会にいくのです。

そう、少女は口がきけないのですが、だからこそか行動にはウソもごまかしもないんですよね。
真っ直ぐストレート。

おそらく、小さい頃から心を病みながら生きてきた少年にとって、そんなストレートな少女が伸ばしてくる手は、救いの手だったんでしょうね。

だから、最後に「少女と再会することで、母の妄想から抜け出す事ができる」んですけど、それが素直に感動なんですよ。

ある意味、どこにでもある普遍的なストーリーなんですけど、ホドロフスキーの世界の中では、異質とも思えるんですよね。
不思議なバランス。

でも、そのおかげでホドロフスキー監督にはとっつきやすさがあるんだと思います。

少なくとも私は、この要素のおかげで、監督の作品が「好き」って思えるし、堂々と言えます。

【リアリティのダンス以前、以後】



旧ブログの過去記事

「リアリティのダンス」は監督の自伝的ストーリーという事で、それを見てからわかる事、気づく事というのがあります。

それは、本作に限らず過去作品のすべてに言えるのですけど、特にれっきとしたドラマ仕立てになっている本作には強く感じました。

母に愛されていないと感じる幼少時代。
父の圧倒的な存在。

母親の存在が強い、というのはある意味男性としては珍しくもない事なのかもしれませんが、本作はそれこそがテーマの軸です。

しかも、その母親はおかしな宗教にはまっているか、父親の浮気に目を光らせてるか、で息子としては寂しい想いをしていました。

そんな寂しさはサーカス団長の息子、ということで周囲の団員達が癒してくれてはいましたが。

ホドロフスキー自身は、「両親は故郷で別れた以降、会っていない」と「ファンドとリス」に収録しているインタビューで言っていました。

私は家族愛を感じていたので、少し違和感を覚えたのですが、だからこその家族愛なのかなー、とも本作を見て思い直しました。

もともと持っていなかったものだからこそ、手に入れたら大事にする、という。

ま、親を捨てて出てきた、なんて事が平然と言える時点で、やっぱり凡人とは違うんですけどね。

母親との関係では「サイコ」


も想い出しますが、「サイコ」に影響されたというのではなく、あくまで監督の体験からなのではないかというのも、今となっては思います。

【そしてハッピーエンドへ】

他の作品がすべて「バッドエンド」という訳ではありませんが、「商業意識」の恩恵か、本作は中でもわかりやすいハッピーエンドなのも、とっつきやすさになっていると思います。

もはや生い立ちから不幸な少年時代、唯一の幸せは口のきけない少女との出会い?
ある意味そんな時代を父と母を同時に失うという、荒業ではあったけど終了し、
精神病時代へ。(すでに立派な大人)
そして、再び外の世界へ出る時代。
だが、それは母親の復讐の時代でもあり、最初は両親を失うきっかけとなった、サーカスの新入りタトゥーの女(口のきけない少女の無責任な保護者)を殺す事から始まり、近づく女性、または気になる女性などを「母の命令で」殺し出す。

終わりがなさそうに見えた、復讐の時代は、少女との再会があっさりと幕を引かせる。

しかも、完全に主人公を、現実の世界に引き戻して。

母親はあの時死んでいた。
今、お前に命令しているのはお前自身だ、と。

ずっと、母の手の代わりだと思っていたのはまぎれもなく自分の手だった。

だから最後、家の外に出て警察に囲まれて「手をあげろ」と言われ二人揃って手を挙げるシーンは、瞬時に感動しました。

「挙げる手があるじゃん! 自分の手だよ!!」と。

すると、スクリーンでも言っているんです。

「マイハンド」

って。

そして、好きな、思い合う女性も一緒に隣で手を挙げてくれているんですよ。

こんなに幸せなシーン、なかなかないと思います。

そして純愛。

「タイタニック」見たことないけど、ここに感動があるから、見なくていいですよ・・・ね?


ただ、最後まではかなり悲しいお話しではあります。

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